やり直すチャンス

あまりにヒドイ政府や国会議員のおかげで、このところよく勉強させてもらえる。


こんなとんでもないやつ、なんとか国会議員を辞めさせることはできないものかと、リコールについて調べてみた。
地方議員に対してはリコール請求できるけど、国会議員にはできない、といつか学校で習ったような記憶が、頭の片隅にかすかにあった。
立憲主義」をまったく教えてもらえない東大法学部より、よっぽどマシな教育を受けてきたに違いない。


確かに、国会議員に対してはリコール請求できない。
憲法にそのような規定がないため、新たに解職請求制度を作ること自体が憲法違反となる可能性があるため、制度を作るには憲法改正が必要になる、そうだ。
憲法違反の可能性ぐらい、現政権お得意の解釈改憲でなんとでもなりそうなものだけど、地方議員のリコールと同じように「有権者の3分の1の署名」を集めるとなると、あまり現実的ではない。

各議院の秩序を乱したり品位を傷つけることが甚だしい場合には「本会議において、出席議員の3分の2以上が賛成すれば除名処分となる」そうだけど、これも現在までに2名しかいないそうで、もともと品位なんかカケラもない似たり寄ったりの議員が多数を占める現国会に期待するだけムダというものだ。


結局のところ、こんな輩はけっして自分から辞めるとは言わないだろうから、次の選挙で落選させるしか方法はないようだ。


どんな輩か、って?


「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

って、こんなことをヘーキで言う人ですよ。

「戦争に行きたくない」が利己的個人主義
「お国のために人を殺し、自分の命を捧げる」人が、立派な教育を受けた人?


さらに、ブログにはもっとメチャクチャなことが書いてあった。

日本国憲法によって破壊された日本人的価値観。」というタイトルで、

「最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを。
 そして、いつもその原因は「日本精神」・「日本人的価値観」を失ったことにあるのではないかと思うのである。
 かつての日本人は『武士道精神』にも表わされているように、道徳的に非常に優れた価値観を持っていたように思う。それは『徳』の高さを至上のものとする価値観だ。『徳』とはまさしく『勤勉』『正直』『誠実』『勇気』『謙虚』『滅私奉公』等々といった古来からある『日本人的価値観』である。今の政治を見ていると想像もつかないが、かつて日本の武士は『法』より高い次元の『徳』や『礼』で裁かれた。いわゆる『法治主義』では無く『徳治主義』だった。」

日本社会の様々な問題の根本原因は、あなたのような国会議員がいることですよ。
法治主義」を否定するのだから、「法的安定性は関係ない」という人と通じるわな。


さらに続けて、(超長くなるけど、あまりにスゴイので引用)

「ではどうやって『日本精神』を取り戻すのか。
 そもそも『日本精神』が失われてしまった原因は、戦後もたらされた『欧米の思想』にあると私は考えている。そしてその『欧米の思想』の教科書ともいうべきものが『日本国憲法』であると私は思う。 
 日本の全ての教科書に、日本国憲法の『三大原理』というものが取り上げられ、全ての子どもに教育されている。その『三大原理』とは言わずと知れた『国民主権基本的人権の尊重・平和主義』である。
 戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく『至高のもの』として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。
 まず『国民主権』について。『国民主権』とは『国家の政策決定権は国民一人一人にある』という民主主義の根本思想であるが、長谷川三千子先生によれば、そもそも『民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム』である。つまり民主主義が具体化された選挙の『投票行動』そのものが『教養』『理性』『配慮』『熟慮』などといったものに全く支えられていないからである。しかしながらこのことは、世界の歴史を見ると第一次世界大戦以前は常識であった。第一次世界大戦前は、民主主義はすぐに衆愚政治に陥る可能性のある『いかがわしいもの』であり、フランス革命時には『恐怖政治』を意味した。民衆が『パンとサーカス』を求めて国王・王妃を処刑してしまったからである。戦前の日本では『元老院制度』や『御前会議』などが衆愚政治に陥らない為のシステムとして存在していた。しかし戦後の日本は新しい『日本国憲法』の思想のもとで、民主主義を疑わず、またその持つ問題点を議論することなく、衆愚政治に陥ることを防ぐシステムもつくらず、ただただ『民意』を『至高の法』としてしまった。
 次に『基本的人権の尊重』について。私はこれが日本精神を破壊した『主犯』だと考えているが、この『基本的人権』は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え『生存権』であっても制限されるものだというのがいわば『常識』であった。もちろんその根底には『滅私奉公』という『日本精神』があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの『基本的人権の尊重』という思想によって『滅私奉公』の概念は破壊されてしまった。『基本的人権の尊重』という言葉に表された思想の根底には、国家がどうなろうと社会がどうなろうと自分の『基本的人権』は守られるべきだという、身勝手な『個人主義』が存在している。従って、国民は国家や社会に奉仕することをしなくなり、その身勝手な個人主義に基づく投票行動が政治を衆愚政治に向かわせ、政治は大衆迎合するようになっていった。それは言うまでも無く『国民の生活が第一』を高らかに叫ぶ今の政治に如実に表れている。
 三番目の『平和主義』については、言わずもがなである。国際社会は、冷酷に国益国益がぶつかり合う『無政府状態』の『争奪・略奪社会』である。そこに日本精神である『正直さ』や『譲り合い』といったたぐいの精神は微塵も存在しない。それは尖閣諸島問題を見れば明らかである。にもかかわらず『日本国憲法』は『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と述べ、『戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認』を規定した。冷静に考えれば、これでは到底他国の侵略に備えることは出来ない。そのことがわかっているからこそ、日本は自衛隊をつくり維持して来たはずである。
 以上述べたように『日本国憲法』の問題は9条の問題だけではない。『日本国憲法』の思想そのものが『日本精神』を破壊してしまったと私は考えている。
 今の荒廃した政治、社会をよく見つめなおし、国家の在り方の基本である憲法をしっかり論じることが必要であると思う。そしてそのことが『日本精神』・『日本人的価値観』を取り戻す『カギ』になると私は思う。」


コレを読んで、「口があんぐり」ならなかった人は、ぜひ教えて欲しい。
もはや、いちいち反論する気にもなれない。
この人のHPのメインキャッチコピーは、
「私には、守りたい日本がある。」

この人が考える日本は、絶対に守って欲しくない。


この人がなにを考え、なにを言うのも自由かも知れないけど、滋賀4区の人たちは、この人がこういう考えを持っている、というのを知った上で投票したのだろうか?

もし、これが選挙区の民意だとしたら、滋賀4区の住民の良識を疑わざるをえない(そんなことはあり得ないとは思うけど)。
そうでないとすれば、こういう人がイキオイだけで国会議員に選ばれてしまう選挙制度自体に大いに問題がある。
まかり間違って選んでしまったときにも、なんとか辞めさせる手段を準備しなければ、中国や北朝鮮やテロよりも、国民にとってより大きな脅威になるに違いない。