お顔

いつかどこかに書いたのか、それとも誰かに喋っただけか、記憶は定かではない。


この役をこの人にやって欲しい、と思う人は大抵そっけないものである。
この人だけにはやって欲しくない、という人に限ってしゃしゃり出てくる。
どんな小さな組織でも、地域のコミュニティでも、国会議員でも概ね同じである。


先週の朝日新聞の土曜版。
「匠の美」というコーナーで奈良大教授の上野誠さんが、中宮寺の半跏思惟菩薩像について、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」を引いて書いていた。

「大和古寺風物詩」は昔々読んだことがあるんだっけ?
それとも亀井勝一郎の他の著作だっけ?
現国の教科書に出てたような気がするなぁ。
いずれにせよ、まったく覚えていないのだから、そもそも同じことか。

それにしても、自分の記憶力のなさには呆れるばかりだ。
若い頃はけっこうな量の本を読んだと思うのだけど、ほぼなにひとつ覚えていない。
ま、そんなことはどうでもいい。


で、「大和古寺風物詩」。
「菩薩は一切衆生をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえたちをあわれみ導いてやるぞといった思いが微塵でもあったならばどうか。
 表情はたちまち誇示的になるか説教的になるか、さもなくば媚態と化すであろう。」


そうなんだ。
この人だけは御免被りたい、と思う人は押し並べて、おまえたちをあわれみ導いてやるぞ、の思いに充ち満ちていて、その「上から目線」ぐあいを私はどうしても受け入れることができない。


安倍首相だって、心から「国民の安全と平和」を守ってやろうと思っているに違いない。
しかしながら、「この道しかない」と断定し、「私は総理大臣だから私の言うとおりにすれば間違いない」と言わんばかりの態度は、まさに慈悲と救いをあからさまに意識しているように見える。
だからこそ、その顔は、中宮寺の菩薩像のどこかそっけないけれどスッとした美しいお顔と比べると、あまりにも脂ギッシュで醜い。